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・カリエンテカリエンテ 4月号
 キューバに、そして音楽界にも大きな変化をもたらしたカストロ政権。今回はその革命の話である。

 革命後、カストロがもっとも力を入れたのが、医療と教育だった。あたしがキューバへ行ったとき、
 「医学はとても進んでいて、特に目に関して、近視や乱視の手術は、世界でもトップクラスなんですよ。」
と教えられ驚いたものである。是非ともこのあたしの悪い目と、悪い頭を治して欲しいモノだと思った。

 教育システムも完備されており、小学校からスポーツ、舞踊、音楽は専門学校が存在し、これらの授業料は無料、楽器も貸与されるという。キューバ全土から優秀な学生が集まる音楽最高の教育機関として、国立高等音楽院があるが、世界的プレイヤーのオマール・ソーサやゴンサロ・ルバルカバ、ビクトル・ロドリゲス等もここで教育を受けたのだった。そう考えると、このキューバの教育システムはもの凄いものだと実感する。

 革命をし、これだけのシステムを機能させていたカストロだが、実際キューバでは、盟友であるアルゼンチン人の医師、チェ・ゲバラの方が人気が高い。
 ゲバラがキューバの政治で活躍したのはわずか6年3ヶ月であるが、その間ほとんど寝ずに過ごし、キューバの為に全身全霊を捧げた。国民が彼を愛しているのには納得がいく。

 あたしの部屋にもチェ・ゲバラのポスターがでかでかと張ってあるが、その優しげでいてキリリとした瞳とハンサムな顔立ちにはうっとりしてしまう。コレも人気の要因にはなっているのではと思うのだが、どうだろう。

 

・キューバのサルサ

革命期

 キューバ独立と前後して生まれたバティスタは、キューバ史上、最悪の大統領であった。
 当時学生だったフィデル・カストロは、仲間を集め反乱の準備を始めた。
 そして、1953年7月26日、 大学生や建築現場の若い労働者で構成された 165名の軍事組織を結成し、サンディアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営を襲撃した。
 この戦いにおいて、カストロ側はたくさんの犠牲者を出し、カストロ自身も捕らえられて裁判にかけられた。裁判において「蜂起の首謀者は誰だ?」との問いに対し「ホセ・マルティである。」と傲然と応えたカストロは、15年の刑を宣告され、収監された。
 しかし世論の強い要求により1年9ヶ月後に釈放されたカストロはメキシコにわたり、そこで生涯の盟友となるアルゼンチン人のエルネスト・チェ・ゲバラと出会ったのだ。そして、チェ・ゲバラをはじめ数少ない同志とともにゲリラ戦の準備をはじめたのである。
 1959年、彼らのゲリラ軍は支持者を集めながら、島の東部からハバナへ向かいバティスタ軍を奇襲した。バティスタは去り、キューバは生まれ変わったのである。

 1962年、カストロとゲバラの一行はニューヨークへ行き、ホテルで演説をし、ケネディ大統領と交渉を交わした。しかし、この旅は失敗に終わり、ハバナへ戻った彼らは、旧ソ連と貿易援助協定を結び、社会主義共和国へ変わると発表したのだった。それをきっかけに、キューバとアメリカの関係は悪化。ついに国交を断絶するまでになってしまった。
 旧ソ連との関係を深める中、アメリカ政府に支援された反共主義キューバ人グループが、カストロ打倒のため、マイアミからピッグス湾に上陸。
 ところがこの作戦は大失敗となり、キューバ軍に撃退されてしまった。そのひとりがグロリア・エステファンの父親だったというのは有名な話である。

 これ以降、キューバ産業は国営化されていき、レコード会社も例外ではなかった。音楽家達は政府から給料を貰う公務員となり、音楽組合に参加させられた。
 ツアーやライブは組合を通して企画され、イラケレや、ロス・バン・バンは80年代殆どを海外で過ごし、外貨を持ち帰りながら、日給25ドルで暮らしていたという。

 アフロ・キューバン・ミュージックは、前政権下で禁止されていたが、新政権になると、薄れていったアメリカ文化の影響を埋めようと、作曲家達は探求し始めた。
 キューバが孤立を深めるにつれ、海外の多様な音楽について知っているのは、巡業するミュージシャンだけになってしまった。そして彼らは、ヨーロッパの音楽祭を通じて、貴重なレコードを持ち帰ってきたのである。
 音楽祭はキューバの娯楽となり、音楽家の活躍の場となった。そして国民はミュージシャンを通して、海の向こう側を垣間見ることが出来たのだった。


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